Hello, World. 私は元気です。
私はお寺や神社へ行くのが割と好きです。足を踏み入れた瞬間に、「お、なんか違うな」って自分の内側でアンテナが立つ気がします。特にスピリチュアルな意味はなく、目に見える、ごく物質的・空間的な意味です。
身近にある非日常空間というか、異空間って感じ。
「人間によってきちんと管理され、守られている」感じがするのもなんかいい。ちゃんと「ここは大切な場所である」として人間が認識し、意図的に維持されているのを感じられるのがいいなと思います。
旅行先でも、お寺や神社によく行きます。最近行ったのは、福岡の太宰府天満宮。改築中で、仮殿の屋根に樹木が生えているのが面白かったです。人間って本当に変なことを思いつきますよね。
若い頃は真面目だったので、お寺や神社に行くからには、きちんとしきたりに従って参拝しなければいけないと思っていました。
寺社へ行く前に、ひしゃくでの手水の仕方を覚えようと動画を見たり、お辞儀と拍手の順番と回数ってどうだったっけ? と調べたり。全然覚えられないんだな、これが。
合わせた手のひらを少しずらすのがいいという記事を見たときは、「はぇ〜! よく思いつくなぁ〜!」と感心しました(おっと、ちょっとずれてきたぞ?)。
ただ、最近は自分が「神社やお寺という空間が好きなだけ」ということがわかってきたので、一般的な参拝の作法に身体が馴染まなくなってしまいました。
まぁ、要するに「形式に価値を感じなくなってしまった」ということですね。だから、寺社に入る際にお辞儀をしたり、賽銭箱の前で二拝二拍手一拝をする際、私はロボットになります。
まるで、そこへ行ったらそう行動するようにプログラムされているロボット。いや、本当に、気持ちはロボットなんですよ! だから、動作も若干カクカクしてるんじゃないかな?!(ほんまか??)
行為自体には全く価値を感じないが、行ったからにはその場の形式に従わないといけないという理性はかろうじて残っているんでしょうね。我ながら、なかなか面白いです。
手を合わせて祈ることは決めていて、毎回「生きとし生けるものが幸せでありますように」です。これは、毎日の慈悲の瞑想でも実践していることなのですが、まぁ、これが一番無難で真理かなと思って。
お賽銭を入れてから最後の礼までが一瞬で終わってしまうので、同行者が熱心に手を合わせるタイプだと、待っている間に近くをうろうろと探索しています。そして「どこ行ったかと思った!」って怒られるまでがセットです。
御朱印は、今のところ、毎回もらっています。記録にも記念にもなるし(もはやスタンプラリー)、それぞれの寺社仏閣でデザインが独自だから、純粋に興味深いです。おぉ、ここはこんなデザインなのか、みたいな。
手書きの毛筆というのも、日常じゃあまり見ないから、新鮮でいい。墨の匂いや、挟まっている半紙も味があっていいです。神社の由来とかが書いてある紙だと、そのまましばらく挟んでいます。結局は捨てちゃうんですけど。
御朱印も、近年値上がり(と言ってもいいのか?)していますが、運営資金になるなら、まぁいいかと思っています。あんまり高くなると、ちょっと考え直すかもしれませんが。
同行者がいれば、おみくじも引きます。その方が盛り上がるので。内容は、所定の場所に結んだ瞬間に忘れています(むしろずっと覚えている人なんているのだろうか…?)。
こんな感じで、私は神社仏閣を訪れていますという…報告?
じゃあ、また。